新たな教育観を手に入れろ!【教育系書籍レビュー②】『街場の教育論』内田樹著
こんにちは😊
日々、教育と心理学とロックンロールについて考えているじんぺー(@jin428)です!
【教育系書籍レビュー】シリーズ第2弾にいきたいと思います。
第1弾記事はこちらから↓
本当は本日届いた『みらいの教育』をレビューしたい気持ちもあるのですが、内田良先生続きになるので、今回は同じく内田でも内田樹先生の本をご紹介します。
「待場の教育論」は大学1回生の時に読みました。ぼくの教育観が音を立てて変わったような本です。
本書は章の数が11と多いので、4年前に読んだにも関わらずぼくの記憶に強く残っている印象的なポイントを拾っていくスタイルでいきます。
それでも長くなりそうな予感がします笑
今回は記事1個でまとめたい。
それではいってみましょう〜
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない
本書を読んだ後から、自分の言葉のように、言い続けていたフレーズです笑
この章、全部貼りたいレベルなのですが、ピックアップします。
教師というのは、生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
—p142
さまざまな技法で、子どもを授業に巻き込む、集中させることを目指す先生は多いけれど、子どもはそのような操作の対象ではないと言います。
その後はこう続きます。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方をまなぶことができません。
—p142
今では内田樹思考が身についてしまっているぼくですが(先生の本はたくさん読みました)、当時はこんな発想あるんやなあ!と衝撃でした。
あー、この後もおもしろい。もう少し引かせてください。なんならこの部分で終わってもいいので笑
「人は知っている者の立場にいる間は常に十分に知っている。教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してない。」ラカン*1はそう言っていました。「教壇に立つ」というのは、そのこと自体が「私は教育の有効性を信じている」と信仰告白することです。
—p142
ラカンに信仰告白、何の話をしているのか分からなくなりそうですね。
コーヒーどうぞ。
学びの場の三項関係
さらにこう続きます。
何も言わなくても、何もしなくても、「私は教壇をはさんで行われる知の運動を信じる」という信仰告白を、教師は教壇のこちら側に立つことによってすでになし終えているのです。それは言い換えると、「私もかつては師の弟子であった」と告げるということです。
—p143
本当に独創的な考え方だと思うのですが、学びの場は「(教)師と弟子(子ども)」の二項関係ではなく、本質的には、「師と、弟子と、師の師」の三項関係であると言います。
そんなこと普通考えつきますかーー
しかし、まだ、いまいちなんのこっちゃ分からんという人もいるかと思いますが、次の段落で少し理解できるかと思います!
ちなみにこの段落は次の文で終わります。
「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。
—p143
なぜ、この関係が学びをより活性化(賦活)させるのか、次で見ていきましょう〜
先人の思想には信用が宿る
「述べて作らず、信じて古を好む」というのは『論語』の「述而篇」にある言葉です。〈中略〉「今から私が話すのは、私が先人から聞いた話です」というのが、教える者がその教えの冒頭に置かなければならない言葉である。孔子はそう教えています。
ーp144
孔子は自分が生きていた500年も前の統治者周公旦の思想を継承者という立場で広めていたそうです。そして、よく知られているように、その孔子の教えもまた「子曰く」の形で弟子たちによって広められます。
しかし、実際はというと、孔子の話は孔子オリジナル。それでもわざわざ、周公旦の話という建前にしていたのは、自分が創造者であると名乗ると教えが効果的に広まらないのを知っていたからに他なりません。
そこまで分かっていた孔子、さすがというしかありませんね。
つまり、
不思議なことですけれど、「私自身が私の語っている言葉の起源である」というと信頼されず、「私は『先賢の語った言葉』を繰り返しているに過ぎない」と言うと信用される。
―p145
ということなんですね。納得するところもあるのではないでしょうか。
内田先生に言わせれば、今も昔もこの教師の役目は変わっていないということです。
教えられてきたことを、「子曰く」ではじめて、子どもに伝えるのが教員の役目と言われると少し、肩の荷がおりるような、そんな気がしませんか。
驚くことにぼくがここまでで、レビューしているのは、本書の4ページ分です。レビュー下手ですね、これは笑
もう1か所だけ触れて終わります。
教育は惰性の強い制度である
これは本書の一番最初の段落のタイトルです。
これも記憶に残っている部分でした。教育改革について考えることが増えてきたので、ここを復習したいと思ったまでです。
どこの国でも、国の代表が教育問題を政策の柱に掲げます。
その理由は、教育政策が成功したか失敗したかの結果発表には長い年月(10年、20年)がかかるため、教育改革を語っても、失政を咎められることがないからです。
なるほど、たしかにと思ってしまいます。
教育改革を起こそうとしたら、「学校教育を一時停止する」必要があるといいます。しかし、そんなことできるはずもないため、教育の「迅速でかつ根本的な改革」が実は実現不可能であるということを私たちは知っているというのです。
車の修理に例えているのが分かりやすいです。
自動車の調子が悪い時に「運転したままで修理したい」と言うことはありませんね。誰だって、調子が悪い時には、エンジンを止めて、修理工場に託します。しかし、教育制度については「そういうこと」はできません。教育制度を改革するというのは、「故障している自動車に乗ったまま、故障を修理する」というアクロバシーを意味します。
―p15
教育改革が一筋縄ではいかないことがよくわかります。
今までそんなにうまくいっていなかったのだから、これも実感があることですね。
ちょっとずつ、ちょっとずつ変わっていくしかないのですね~
まあそうだよね、という気持ちと、教員の働き方改革はまた話が違うのかなあという気持ちもあります。
制度1つ変わるだけで、風向きが大きく変わるようなそんな気がします。
やってみないと分からないというのは一緒ですね。これからも動向をよく見ていきたいなあと思っています!
レビューになったかどうかわかりませんが、たった数ページでも、納得できるポイントが結構あったのではないかと思います。
ぜひ、本書を手に取って頂いて、わくわくの連続である内田樹ワールドを体感して頂きたいと思います!
今回もここまで、長いこと読んで頂きありがとうございます。
少しですが、周りからブログ読んでるといわれはじめ、とても嬉しいです。
*1:フランスの精神分析学者でレヴィ=ストロース、アルチュセール、フーコーと並ぶ構造主義の四大家の一人。