日本の四季は美しいというけれど『俳句とはどんなものか』高浜虚子著
みなさんこんにちは!
日がだいぶ空いてしまいました。
お元気しておりますでしょうか??
2ヶ月ほど前の最後の記事は、SNSとかコミュニティについていろいろ書いたんでした。
そして今回も全く別のこと書きます。
最近、ぼくは俳句が好きです。俳句に関する記事も何個か書きました。
Twitterでもけっこう詠んでいます。
— じんぺー📜Teacher Aide (@hitsuwari5th) 2020年7月16日
— じんぺー📜Teacher Aide (@hitsuwari5th) 2020年7月13日
で!今読んでいる本が俳句関連の本なのです!
これを読んでいて、「ああ日本語って、日本の四季って素敵だなあ」と改めて感じたので、シェアさせてください。
みなさん日本の四季は好きですね???
満場一致で「好き」ということで、ありがとうございます。
ぼくも例に漏れず「日本の四季っていいよな、美しいよなあ」と思うタイプなのですが、その思いを強くする俳句のあれこれなのです。
本書で高浜虚子が引いている蕪村の句をここでも引かせてもらいます。
俳句の前に前置があるパターンのものです。
西の京にばけものすみて久しく荒れはてたる家ありけりいまそのさたなくて
春雨や人住て煙壁を洩る 蕪村
前置があるのでなんとなく状況は分かって頂けるのではないかと思います。
簡単に説明すると、京都の西の方のある家は化けもの屋敷と長い間評判であって、人が住んでいないまま荒れはてていたが、その家にはもう人が住んでいてご飯を作る煙が壁の隙間から外に漏れている、とそんな感じです。
ここで気付くのが、長めの前置があるからか、初句の「春雨や」がなくても意味は伝わるし、その状況だけでもなんとなくおもしろいということです。
しかし、高浜虚子は、
その初五字がない方がいいかとなるとそれは決してそうだとは申されません
と記しています。ここからの試みがおもしろいのですが、「春雨や」を「夕立や」「秋雨や」「時雨るるや」に置き換えてみるというのです。
「夕立」の場合
夕立は夏の日の夕方くらいにザーっと降る強烈な雨です。
そして、そのザザ降りの後はすぐ晴れるという軽快な心持ちがすると虚子は考えています。
だから、妖怪が住んでいたという陰気な感じは鈍ってしまう。
「秋雨」の場合
秋雨は、秋の寂しさが主になって、陰気な感じは十分であるのですが、
同時に壁を漏れ出てくる煙までが陰気臭い感じになってしまって、現在住まっているいる人さえもやはり妖怪ではないかという疑いさえも出てくると言うのです。
「時雨」の場合
やはり陰気な心持ちはあるのですが、それよりも乾びた趣が主になると言います。
だから、その家から出てくる煙もかれがれとした印象を持たれます。
「春雨」の場合
これが蕪村の詠んだ句になるのですが、春雨は他の雨と比べて1番濃艷な感じがします。同時に濃艷な妖怪味すらある。
また、春の雨は草木さえもその力で養っていかれるというような親しみのある優しみのある雨であって、妖怪が今は住んでいない平和な感じがする句の様子ともフィットしています。
いかがでしたか?めちゃくちゃおもしろくないですか!
日本人は四季という4つの区分以上に季節というものを細かく捉えていて、そこで起こる1つひとつのイベントに対しても特有の心情を持っているのだなあと感動します。
ぼくたちも春の雨と秋の雨に対するイメージが違うのはなんとなく思っていることだと思いますが、そういうものを改めて言語化して、表現に落とし込んでいく過程が美しいなあと思います!
というわけで、今回は俳句の世界から四季の美しさについて少し考えてみました!
ここまでよんでくださりありがとうございます!
最近やっとで晴れてきましたね〜