ぼくの彼女は小学校教員
みなさんこんにちは。
この記事にたどり着いて頂きありがとうございます、じんぺーです。
けいぶん社の記事ではありません笑
実は、もうすぐこのブログの更新を止めようかと思っています。新しく、ブログが書けるホームページを作って貰いまして、今度から何か伝えたいことができた時はそちらに書こうと思います。(あとは、毎日Facebookでも日記書いているのでそちらもぜひ。)
これが最後の更新ではないので、このブログとの思い出は今度改めて書こうと思います。
ただ、このブログで書いておきたいこと、書いておかないといけないことがまだあるなあと思い、今日は筆を執りました。少し長くなるかもしれませんが、この内容は、新しいホームページで更新するより、ぼくをここまで連れてきてくれたこのブログで書きたいと思いました。よければお付き合いください。
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ぼくの彼女は小学校教員です。
大学卒業してすぐ正規採用されたので、今年で4年目です。
彼女が採用試験に受かった時は一緒にいました。なんとニュージーランドの南島。しょっぱめのスープが24時間キッチンで飲めるゲストハウスでした。1万km近く離れたところで結果がすぐ分かるなんてすごい時代ですよね。
彼女はとても喜んでいました!
来年のことを考えると少しドキドキも混じっているようで、前面に喜びを表出している感じはありませんでしたが、嬉しそうな様子がそれとなく漏れ出しているように見えました。
金欠旅行の途中だったので、安いピザ(手作り)と安いワインでお祝いしました(あっちだとこういうメニューの方が安上がりなんです)。
そんな喜びの結果発表から半年後、ぼくの彼女は小学校の先生になりました。
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1年目。
彼女は先生になると同時にぼくの住む町から引っ越したので、少しだけ距離ができました(車で2時間とか)。
4月の1週目、彼女も不安だろうと思い、引っ越しお手伝いがてら、何日間かは彼女の新居に泊まって学校に送り出していました。慣れないことで神経使うので疲れていましたが、憧れの先生の仕事をしている様子は充実しているようにも見えました。
ぼくも大学が始まるため、2週目からは離れての生活となり、いよいよ彼女の学校にも子どもが登校してきました。
ここまでこんなに細かく書いておいてあれなんですが、正直、当時のことはそこまで鮮明に覚えているわけではありません。
ただ、これだけは事実なのが、朝7時過ぎに出て、夜10時過ぎに帰ってくる生活を続けていたことです。朝ごはんは食べない、返ってきてもお風呂に入るのがやっと、晩御飯も食べない、食べるのは学校での給食のみ。一方で、トイレは朝と帰ってきてから行くだけで、学校では行かない。そんな生活です。週末はぼくが会いに行ったり、会いに来てくれたり、していましたが、外に出ても子どもや保護者と会うと休まらないということで、逃げるように自分のところに来ることが多かったように思います。その代わり、学生のぼくは学校やバイトの合間を見つけて、バイクで2時間、平日に会いに行くこともよくありました。
正直、見ていられませんでした。
健康が取り柄だったはずなのに、腹痛で病院に行ったりしたこともあって、自分の大切な人を傷つけているのはなんなんだ、という怒りの感情も湧いてきました。
やっとこさ到達したゴールデンウイーク(思ったより時間経ってないなって思わないで…)、ぼくたちは共通の友人(同級生)と会うことがありました。
彼女の教員1年目の時、当然ですが、周りの同級生も教員1年目でした。そこで、聞いた話は、彼女の状況ととても似ているもののように感じました。
その友達は「何を楽しみに生きているんだろうね」と言いました。大学の時は「朝が来るだけで幸せ」とか言っていた子なので、とても驚きました。
ここで、ぼくは、しんどい思いをしているのは、彼女だけではないんだ…ということを強く実感します。そして、また、大切な人を傷つけている何かに対する怒りのような感情がこみ上げてきました。
イベントとかでぼくの話を聞いたことがある方は、この辺りのエピソードは簡単に紹介しているので、一致したかもしれません。そうなんです、この1年目の出来事が、ぼくが発信を始めた理由であり、Teacher Aideという学生団体を立ち上げた理由です。
(一緒に団体を立ち上げてくれたかんのすけくんには、いつも「彼女のために作った団体」といじられていました笑 確かにそういうところもあるので、あまり否定はできませんが…)
正直、ぼくは彼女や友達のために何かできたかと言われると特に何もできていない、というしかないのですが、この問題が多くの人(しかも全国に友達ができてしまったので)にも降りかかっている問題だと気づき、これからもぼちぼちがんばりたいと思います。が、今回はこの話が本題でなかったですね。
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2年目。
しんどい1年目を乗り越え、慣れてきた彼女は、、、
と書きたいところなのですが、2年目は2年目でとても辛そうな彼女の姿を見ることになります。それも、1年目とはまた違ったしんどさを味わうことになります。
こう書くと予想がついたかもしれませんが、学級がまとまらず、彼女は疲弊していきました。「学級崩壊」というワードをあまり使っていなかったのですが、見る人が見たらそうだったのかもしれません。この時の彼女は1年目より早く帰れていましたが、業務に忙殺されていた1年目よりもむしろ辛そうでした。
Twitterでも「学級がしんどいのと、職員室がしんどいのはどっちが辛い?」というテーマを見たことがありますが、彼女の様子を見る限り、学級のしんどさが上回っていたように思えました。
(念のため…ですが、しんどいにもいろいろあると思っていて、彼女の場合は、仕事の量が多い、というのが職員室のしんどさで、人間関係の面ではとてもいい職場だったようです。むしろ、しんどい彼女を支えてくれた当時の主任さんや周りの先生方には感謝してもしきれません。)
運転してると涙が出てくる、とか更衣室に逃げ込んで泣いた、とかいうこともたくさん聞いていました。
そして、ぼくはここで1つの行動に出ることになります。
それは、彼女に「転職をすすめること」です。すすめるどころか、転職の候補を調べたり、履歴書を作ったり、面接会場に送迎したりと、できそうなサポートは全部しました。それほど、今の彼女の状況に(自分自身も)辛さを抱えていたのでした。
平日は長い時間学校にいて(1年目よりも早くなったとは言え、20~21時が基本だったと思います)、土日の貴重な休みの日に転職活動をする毎日はとても大変だったと思います。ただ、この本当に大変な生活が少しでもよくなればと、未来志向で動いていた期間でもあったと思います。
何社受けたかは覚えていませんが、1つ2つの内定も頂いていたと記憶しています。
が、結局、彼女は先生をやめることはしませんでした。色々な理由はあるだろうし、ぼくも全てを知っているわけではないのですが、やっぱりこの仕事で、自分なりに社会をよくしていくんだ、という気持ちがあったのだと思っています。
もちろん、お給料のこと、将来のこともよく話していて、自分の目の前にある選択肢からやっとの思いで、先生を続ける道を選んだというのも伝わってきました。
そこで、ぼくは気づいたことがあります。自分が彼女に「先生をやめて欲しい」と思い、行動していたことは、彼女のためではなく、(同様に辛かった)自分のエゴだったのではないかということです。
「辛いなら辞めたらいいじゃん」は誰も救えないことを知りました。ぼくが考えているよりももっともっと多く、深いことを考えながら働いている人に対して、失礼だと思いました。
それ以来、ぼくは「やめたら?」とも「他の仕事どう?」とも言わないようにしました。
その代わり、彼女が「他の仕事…」というようなことがあったら、たくさんお話を聞きたいし、サポートも全力でしたいなあとは思います!
(もちろん、これらは彼女に対しての誓いというよりも関わっている多くの先生方にも共通して言えることです。こちらのエゴで提案したり、すすめたりしていないか、とか意識したいし、何か困ったことがあったら、聞きたい!と思います。全て叶えられるわけではないのが辛いところですが…)
そんな転職活動が教員2年目のハイライトでした。
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3年目。
2年目の反省を活かして、4月からクラスが荒れないようにとても気を遣っていました。その甲斐もあって、学級のしんどさというものもなく(ないというと語弊がありますね、「大変ながら楽しく」というのが正しいかもしれません。)、充実した毎日を過ごしていたように思います。
しかしながら、そう簡単には順風満帆といかせてくれないのが、学校です、かね…
この年は(というか去年)、コロナウイルスという彼女だけでなく、全教員が対応したことのない出来事と向き合うことになります。
「低学年の子にソーシャルディスタンスなんて無理だろううううう」って叫びながら学校行ってました。コロナ禍における学級経営に難しさを感じていたようでした。
が、それでも全体としては、少し早く帰れる日があったり(それでも18時は過ぎているし、7時過ぎには)、学級経営も円滑に進んでいたり、そして、1年目の時からそうですが、職員室のたくさんの先生の支えがあったりで、充実した毎日を送っていたように思います。
この年、ぼくにとっても嬉しいことがありました。
ぼくが発信を始めるようになってから、多くの先生や教育のことをやっている人と繋がってきたのですが、けっこう彼女も一緒に連れて行くことが多かったんですよね笑
(イベントをする時とか、いいものを作っている自信があったので、1番身近な教育関係者にも来て欲しいな~~ってそういう感じです)
それでぼくの仲のいい先生たちは彼女にとっても仲のいい先生になっていきました。そして、その繋がりがあったことで、彼女が困った時にその繋がりを活かしてくれるようになりました。
たいち先生にクラス会議のこと聞いたり、ざるさんに学級経営のことを聞いたりしていました。
上にも書いたように発信や活動をはじめてから、彼女や近くの友達のために何かできたということはあまりないのですが、この出来事は「(活動を)やっていてよかったのかな」と思わせてくれる出来事でした。
(あとは彼女はアイムフリーさんのガチファンなので、自分伝いで彼女の話をアイムさんとしている時は嬉しそうでした笑)
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4年目。
まだ、4年目は終わっていませんが、1、2年目に比べて明らかに顔色はよくなったし、毎日泣いて通うということもなく過ごしています。
もちろん、まだ7時出勤、19時退勤がデフォルトであるし、布団から出るのが嫌そうな毎日ではあるのですが、それでも身体を壊すことなく、生活できていることがありがたいです。
まだまだ何が起きるか分からないし、彼女が「先生をがんばりたい!」と言っても、「先生やめたい!」と言ってもお手伝いできるように支えて、応援できるように勉強し続けたいと思います。
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終わりに。
彼女が時間をかけて、慣れてきて、やっとでそれなりに健康的な生活を送れるようになってきたように、今年初任の先生、2年目の先生、まだまだ大変な思いをされている方も多いだろうと思っています(もちろん、何年経っても大変な仕事であるというのは大前提です)。そう考えるとまだまだやらないといけないことはあるのかなあと思います!
ただ、彼女や大学時代の友人など周りにいる人たちをないがしろにして活動するのも違うなあと思っていて、まずは周りの人を幸せにしたいなあ!それから余った分を社会がよくなる方向に使いたいなあ!って思っています!
ここまで長い文章読んで頂きありがとうございました!