この体験からあなたは何を感じますか?【心理学系書籍レビュー②後半】『夜と霧』ヴィクトール・フランクル著
こんにちは😊
教育と心理学について考えているじんぺー(@jin428)です。
前回、ヴィクトールフランクルの名著『夜と霧』をレビューしておりました。
書くことまだまだあるので、早速行ってみましょう〜
収容所生活そのものの段階
ここから、被収容者の心の反応第2段階である、収容所生活そのものの話に入っていきます。
感動の消滅(アパシー)
「感動の消滅」のルビが「アパシー」となっていました。
アパシー*1って今使われる意味と少し違うかもと思っていました(注釈参照)。
フランクルが言うに、第1段階での感情はここでは消滅段階に入ったそう。
主に抹殺しにかかった感情は「家に残してきた家族に会いたい」という思い、それは考えれば考えるほど、自分自身を苦しめるからだと思います。
また、もう1つは嫌悪。醜悪なものがあふれかえる収容所生活で、いちいち嫌悪の感情を持っていたらストレスがたまって苦しみが増すということがありそうな気がします。
いずれもより長く生きることができるようにするために本能的に起こった感動の消滅だったのでしょう。
人が人として到達できる究極にして最高の物
フランクルは冬の夜道を歩いていると、仲間の1人が、
「女房たちはこのありさまを見たらどう思うだろうね。女房たちの暮らしはもっとましだといいんだが。」
と奥さんの話をします。
その瞬間、フランクルには、奥さんの姿が見えたようです。
その後の言葉がぼくは好きです。またもや引きます。
私は妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るく私を照らした。
―p.60
遠い地の何十年も前の出来事で、強制収容所の生活も想像を絶するものがありますが、ここのシーン、なぜか感情移入できるような、情景が浮かぶような、感じがしました。
感動します。
そして、フランクルは悟ります。
その時、ある思いが私を貫いた。〈中略〉
愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今私は、人間が詩や思想や信仰を通じて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛の中へと救われること!人はこの世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、私は理解したのだ。
―p.61
「愛は素晴らしい」「何より大事なものは愛」
多くのアーティストがそんなことを歌ったり、絵で表現したり、またアーティストでなくても、言葉にしてきたりしました。
それらのどれよりも、心の底から生まれた言葉だと思いませんか。
「この世にもはや何も残されていなくても」という考えられる最悪のシチュエーションが伝われば伝わるほど、フランクルが出逢った愛の神髄に近づけるのではないかと思っています。
精神の自由
本書で最も有名な部分かもしれません。
多くの『夜と霧』愛読者がピックアップするところだと思います。
長らく収容所に入れられている人間の典型的な特徴を心理学の観点から記述し、精神病理学の立場で解明しようとするこの試みは、人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、例えば強制収容所の心理学なら、収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる、との印象を与えるかもしれない。
―p.109
と、フランクルは先にことわります。
こんなに自由のない収容所生活の中で、できるだけ一般的な心理反応を見ようとしているフランクルだったので、
「では、人間は極限に自由を奪われた状態では同じようなことを考えるのか」
と言われてもたしかにおかしくない、と感じでしょうね。
そんな疑問にフランクルはこう答えます。
経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのやりようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やは。そういったことはあったのだ。
―p.110
ぼくは何度読んでもこの部分で脈拍が上がります。そして震えます。もう少し引かせてください。
強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。
―p.110
すごいでしょこれ。
ライフワークだった原稿、結婚指輪、着ていた衣服、自分の名前、健康的な食事、生活、これまでの人生、すべてを奪われたとしても、その環境でどうふるまうかという態度は誰にも奪われないって言ってるんです!!実際に奪われた人が言ってるんです!!
なんか、人間も捨てたもんじゃないなって思いませんか。
助け合うために生まれてきてるんだ、ってそう実感しませんか。
生きることの意味とは
フランクルもぼくのようにある人の言葉を引用しています。
ドストエフスキーの、
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ。」
という言葉です。
この究極の、そして決して失われることのない内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、全うに苦しむことは、それだけでもう精神的に何事かを成し遂げることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息を引き取るまで、その生を意味深いものにした。
―p.112
そして、
そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじからめに制限される中でどのうよな覚悟をするかという、まさにさその一点にかかっていた。
―p.112
生きることを意味あるものにするために大事なのは、先ほど話していた、人間の精神の自由だと言っています。
最後にします。
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの1部なら、運命も死ぬことも生きることの1部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ。〈中略〉
私たちを取り巻くこの全ての苦しみや死には意味があるのか?もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
―p.113
ぼくは、「偶然の僥倖」の反対は、「精神の自由」だと思います。
偶然に左右されるだけの人生なら生きるに値しないと言い切っています。
そして、その偶然に左右されるだけの人生ではない証拠が、ここで何度も出てきた「精神の自由」にあります。
どんな運命になろうとも最後の態度を決定する自分がいる限り、生きる意味はそこに生み出されるというわけです。
人間っていいな、生きることっていいなと思えてきます。
東日本大震災の後に
この本は、東日本大震災の後に、再び多くの人に読まれたと聞いたことがあります。
本書のこういった部分が人びとの心に響いたのでしょう。
収容所からの解放の段階
ここはあっさりめにいきます。
みなさんはもし、フランクルのように強制収容所に入れられたとしたら、解放の瞬間どんな気持ちになるでしょうか?
ぼくはやっぱりこれ以上ない幸せな気持ちなんだろうとか、早く家族に会いたいだろうなとか考えていました。
フランクルはこうです。
「はっきり言って、うれしいというのではなかったんだよね。」
わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学び直さなければならないなにかになってしまっていた。
―p.149
フランクルは、心理学の立場でいえば、極度の離人症と分析していました。
すべては非現実的で、不確かで、ただの夢のように感じられる、そうです。
うれしさを忘れていた、自分の想像をはるかに超えるところに彼らの心理状態はあったのだと痛感しました。
どんなに想像力を膨らましても、彼らを理解しきることはできないと思います。
もし、「気持ち分かるよ」という人がいれば、それは奢りだとも思います。
でも、分からないからこそ、こういう名著から、少しでも、想像し切れない話を自分の中に取り込んでいくことが大切だとも思っています。
ぜひ、『夜と霧』手に取って読んでみてください。
- 作者: ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2002/11/06
- メディア: 単行本
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もうなんなら、立ち読みでも読んで欲しいくらい笑
読むなら、p.109~p.113をぜひ。
今回もここまで長いこと読んで頂きありがとうございます。
冬、1番好きな季節でした。今はどうだろ。
*1:青年期に多くみられる無気力・無関心な状態のこと。